小泉信三―天皇の師として、自由主義者として

本書で取り上げる小泉信三は経済学者であり、本書のサブタイトルにもある「天皇の師」でもあった。その「天皇」は現在の上皇陛下であり、戦後間もない時に教育掛となった経緯がある。こちらの詳細については第4章で詳しく述べることにするのだが、経済学者として、上皇陛下の教育掛として活躍した小泉信三の生涯を評伝として取り上げたのが本書である。

第1章「父と修学時代」
小泉信三の父は小泉信吉(こいずみのぶきち)であり、幕末の時に福澤諭吉と出逢い、薫陶を受けた。後に慶應義塾長を務め、現在の慶應技術大学の基礎をつくった。福澤諭吉も小泉信吉への信頼は厚く、信吉が逝去したときには福澤自ら弔文を記すほどであった。信吉が逝去した時はまだ信三が幼かったときのことであったのだが、福澤諭吉に目をかけてもらうだけでなく、福澤邸に同居した時があるほど福澤家、慶應義塾と縁は深かった。もちろん大学も慶應義塾大学を卒業した。

第2章「論壇の若き経済学者―マルクス主義批判の旗手」
卒業後は慶應義塾に残り教員となったが、同時に経済学者としてマルクス主義批判を合理的に行うという画期的なものだった。そのことで社会主義・マルクス主義者たちからの批判は激しいものだったが、それにもめげずに戦い続けた。他にも普通選挙支持やスポーツの称揚にも尽力した。

第3章「戦時下、慶應義塾長の苦悩―国家・戦争の支持」
1933年に慶應義塾長に就任した。第1章でも述べたように父の真吉も1887~1890年の間塾長を務めていたため、親子二代で塾長就任となった。信三は1933~47年の長きにわたる間だったのだが、年代を書いての通り、このときは大東亜戦争を含めた第二次世界大戦に入る前から終戦にかけてのためちょうど戦争の真っ只中のなかで慶應義塾の長を務めるという難しい立場で舵取りを行う必要があった。教育の場でありながらも、国家の変化に対応が迫られたが、このときの信三は国家や戦争の支持をする一方で、当時あった福澤攻撃論からの擁護も行わなければならなかった。

第4章「皇太子教育の全権委任者―「新しい皇室」像の構築」
信三が上皇陛下(当時は皇太子明仁親王)の教育掛となったのは1949年、慶應義塾長を退任してから2年後のことである。このときは日本国憲法が施行され、「象徴天皇制」が敷かれるようになった時である。「新しい皇室」像をいかにして構築していくか、信三の教育の手にかかっていた。上皇陛下への教育の題材として「ジョージ5世」「帝室論」などを取り上げた。いずれも象徴天皇制としてのエッセンスがあったことを見出してのことである。また他にも小説を読ませることも行われた。さらに言うと後の「ミッチー・ブーム」となる上皇后美智子さま(当時は正田美智子氏)との結婚も信三が関わっていた。

第5章「オールド・リベラリストの闘い」
小泉信三はリベラリストとして論争に加わっていたのだが、その中でも「オールド・リベラリスト」の立場であるため、新しいリベラリストとも激しく対立していた。教育掛を退任してからはその論争を続けていたのだが、どのような論争が行われたのかを取り上げている。

戦後国家、さらには皇室などありとあらゆる面で影響を与えた人物と言っても過言ではない。また現在における慶應義塾の根幹もまた小泉信三の影響は計り知れない。その足跡が本書にてよく分かる。

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