「自画像」と呼ばれるものは古くは古代エジプト時代における「壁画」から存在していた。それから時代は変わり、カンバスなどから絵を描くようになり、貴族を中心に自画像をお抱えの画家をもって描かせるといった時代があった。特に現在放送中のテレビアニメ「アルテ」はイタリアにおけるルネサンス期が舞台であり、この時代において描かれた自画像は今もなお残っているものも多く、美術館に展示されているものも数多くある。
本書はその自画像はいつ頃から始まり、著名な自画像はどのような傾向にあったのか、そのことについて取り上げている。
第1章「自画像のはじまり ―― 鏡の国の画家」
本章において取り上げる「自画像」の始まりは1433年にファン・エイクが描いた「赤いターバンの男」である。そもそも「自画像」とは何かという問いが出てくる。理由としては壁画のころからも王などの貴族を象徴として描いた壁画やモニュメントがあるのだが、ここではあくまで油彩画などの「ドローイング」を主軸としている。
第2章「カラヴァッジョ ―― ナイフが絵筆に変わるとき」
本章で取り上げるカラヴァッジョというと、ようは「ミケランジェロ」と言えば分かりやすい。ミケランジェロ自体の本名は「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ」であり、本章のタイトルはラストネームから取っている。ローマの中でもっとも成功した画家であったが、サブタイトルにある「ナイフ」はというと、名作を生み出した反面、素行が悪く暴力沙汰を起こしたことは数知れず、その度に拘置所に入れられたことがあったほどである。
第3章「ベラスケス ―― 画家はなぜ絵のなかに登場したのか」
「自画像」と言う概念にて最も有名な絵画となるとディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」を連想させる。ベラスケスの生涯と絵の傾向については今年の最初に取り上げたこと「ベラスケス 宮廷のなかの革命者」が詳しい。
第4章「レンブラント ―― すべての「わたし」は演技である」
レンブラント・ファン・レインは現在で言う所のオランダの画家であり、肖像画なども多く描いているのだが、もっとも有名づけているのは「自画像」で90点ほど存在するのだという。なぜ90点と多く描いたのか、そして描かれた自画像の中にある傾向とは何かを取り上げているのだが、もともとレンブラントは浮き沈みの激しい画家であったため、それが浮き彫りになっているのではないかと推測している。
第5章「フェルメール ―― 自画像を描かなかった画家について」
本書は自画像を取り上げた一冊である。しかしながら本章で取り上げるヨハネス・フェルメールは自画像を1点も取り上げたことがない。本来であれば取り上げるにそぐわないように見えるのだが、著者はあえて「フェルメールはなぜ自画像を描かなかったのか?」という論題を出して考察を行うと言うことを本章にて実施している。そこにはフェルメールならではの画風が起因としてあるという。
第6章「ゴッホ ―― ひとつの「わたし」をふたつの命が生きるとき」
レンブラントほどではないのだが、フィンセント・ファン・ゴッホも37点と数多くの自画像を描き残した。諸説あるのだが、現実的な説としてはモデルを雇うお金がなく、肖像画として自画像を描いたものがある。長い生涯の中で様々な場所へと移り住み、事件を引き起こすようなこともあった。そのためか1つ1つの自画像にも変化が生じている。自画像の傾向によって精神状態の変化に関しての研究も行われるほどである。
第7章「フリーダ・カーロ ―― つながった眉毛のほんとうの意味」
フリーダ・カーロはメキシコの画家であり、メキシコの美術史の中でも特に有名な画家の一人でもある。200点ほどある美術作品の内半数以上が自画像であることから、少なくとも100点以上あるという計算になる。しかしカーロの自画像の多くは漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公である両津勘吉ばりに眉毛がつながっている作品がほとんどである。本来のカーロの肖像写真は眉毛がつながっていないのだが、なぜつなげているかという疑問が生まれてしまう。そこにはカーロ自身の生涯の中に意味があるのだという。
第8章「アンディ・ウォーホル ――「シンドレラ」と呼ばれた芸術家」
本章で取り上げるアンディ・ウォーホルは取り上げている画家の中で唯一現代にて活躍した画家である。派手な色彩が仕えるシルクスクリーンを駆使し、前衛的な作品を生み出したことでも知られている。その一方で自画像も数多く生み出したのだが、その自画像でも得意としていたシルクスクリーンを使用している。ウォーホルの自画像はどのような傾向にあったのか、そのことについて取り上げている。
第9章「さまよえるニッポンの自画像 ――「わたし」の時代が青春であったとき」
日本にも自画像は存在しており、もっとも有名なものとして雪舟の自画像がある。他にも数多くの日本画家が自画像を取り上げているが、海外と異なる点があるのだという。
自画像にしても、自分自身を撮影した写真にしても、ありのままの「自分」、あるいは飾っている「自分」などの様々な面が映し出される。しかし描かれている「自分」は時代と共にタッチは変わってはくるものの、自画像を描いた人々の生涯が自画像の中にあるメッセージとしてあるのではないかと感じずにはいられなかった。
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