加害者家族バッシング―世間学から考える

海外では人種・身分の差別が根強く残っている所がある。中にはニュースにもなり、差別によって凄惨な事件の引き金になることも少なくない。日本では差別はないのかというと、実際にはそうではない。センセーショナルな事件において、地域や家族を排斥するような動きを見せており、「差別」をしている風潮もある。とある事件にて加害者がいる場合、その加害者ばかりでなく、家族にまでバッシングを行う、さらには差別するといった風潮が見られる。

この「差別」がなぜ起こるのか、そこには日本独自にある「世間」というものが存在するのだという。本書は加害者バッシングと「世間」のメカニズムについて追っている。

第一章「ニッポンにしかない「世間」」
もっとも「世間」と言う言葉は日本独自の言葉である。無理矢理英語にすると「Public」となるだけであり、「Public」の本来の意味は「公共」といった公式なものである。なぜ日本は「世間」にこだわるのか、そこには日本独自の社会構造がある歴代でも流行語として出てきた「KY」や「忖度」といったものが日本独特の理由として出てきたとも考えられる。

第二章「親(家)は責任を取れ―ニッポンにおける<近代家族>の不在」
近代的な「家族」と言うと、「核家族」と呼ばれる状況をイメージする。しかしながら実際ある日本の「家」制度は、「家」そのものと言うよりも、親族を「家族」とみなし、特にある人が加害者になった時にその周辺の親族がバッシングを受けると言うような風潮がある。海外ではそういったことが一切ないのだという。

第三章「安全・安心の国ニッポン―同調圧力のつよさとケガレ」
日本では一度「逮捕」されると、前科者のようなレッテルを貼られる。たとえ裁判で無罪を勝ち取ったとしても。なぜ無罪にもかかわらず「逮捕」だけで加害者のレッテルを貼らされるのか、そこには日本独特の「ケガレ」の思想と同調圧力がそうさせているという。

第四章「死んでお詫びします―「高度な自己規制」の異様さ」
同調圧力やバッシングは時として自殺に追い込むことさえもある。ある事件においての犯人の家族がバッシングに耐えきれず、自殺するという痛ましい事件があった。その痛ましい事件が起こった要因として、かつての「ハラキリ」の文化も考えられるのだが、著者は「自己規制」がキーになっているのだという。

加害者「家族」へのバッシングは日本独特のものであるという。その背景には「世間」という風潮があるのだが、それをいかにして解消していくかについては非常に難しいものである。またその解消についても良しとしていない議論もあり、一筋縄ではいかないのは確かである。

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