ドナルド・トランプが大統領となった大統領選の中で取り上げられることがあった。最も根幹としては2016年12月に起こった「ピザゲート発砲事件」であり、その間もない時に大統領選でも盛んに使われた。トランプが大統領就任した時には特定のメディアに対して「君たちはフェイクニュースだ」と主張したことも記憶に新しい。
インターネットの中で流れる情報も玉石混淆と呼ばれる中でフェイクニュースは科学的な観点でどのように映っているのか、本書はそのことについて考察を行っている。
第1章「フェイクニュースとは何か」
もっとも「フェイクニュース」は単なる虚報や誤報ではなく、ある種のプロパガンダや煽りといった内容を持たせるとこもある。選挙戦でもよく使われているほどである。そのような言葉が使われたのは冒頭でもある通り2016年であるのだが、プロパガンダとしてフェイクを取り上げることは往々にしてあった。もっとも第二次世界大戦にしても、それ以前の戦争出会ったことにしても虚偽の情報を流すことで相手を欺かせ、勝利を奪うと言った手段はローマ帝国時代にまで遡るほどまで存在するという。
第2章「見たいものだけ見る私たち」
とはいえよくある情報もフェイクニュースとして捉えてしまったり、あるいは確実な虚報であったとしても真実のように捉えてしまうようなこともある。その背景には「認知」といったものが存在する。その「認知」には感情なども入り交じるほどであるという。
第3章「見たいものしか見えない情報環境」
もっとも情報を見ることについては自分で見たいものしか見ないといったクセまでも存在すると言う。その存在はどのようにして見てしまうのか、また嘘を嘘として捉える、逆に真実のものを疑うといったことはどのようにして起こるのか、本章ではそのことについて取り上げている。
第4章「無限の情報、有限の認知」
今となってはインターネットを中心とした情報が数多くある世界である。もっというと「情報過多社会」とまで言われるほどである。「情報過多社会」となると受け取る量がオーバーしてしまう、もしくはどの情報を受け取ったら良いのか錯綜してしまうといったことが起こりうる。
第5章「フェイクニュースの処方箋」
フェイクニュースに惑わされないことが先決であるのだが、そのためにはどうしたら良いか、そこには「メディアリテラシー」がある。メディアリテラシーというとインターネットが使われ出した頃からも言われているのだが、玉石混淆といえる情報社会だからでこそ重要性が増している。もっとも「リテラシー」の在り方も変わってきているため、今のリテラシーを身につけるべきとしている。
情報の濁流は今もなお流れ続けている。ちょうど当ブログの原点にあたる「蔵前トラック」の時にも情報にまつわる本を取り上げたことがあったが、その時から変わっていないとなると約12年同じ事が言われているとも考えられる。今となっては誰でもインターネットに触れる時代だからでこそ、錯綜する情報やフェイクに惑わされないようなリテラシーといった自己防衛策を持つことが必要である。
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