わたしが障害者じゃなくなる日 ~難病で動けなくてもふつうに生きられる世の中のつくりかた

「障害者」と言っても「身体」「知的」「精神」などの種類があり、その中でもどの部分に障害があるのか、そしてその度合いといったものもある。五体満足に動かすことができないこともあるなど、何かしらかのハンディがある、そのことを「障害者」と言える。

本書の著者は「脊髄性筋肉萎縮症(SMA)」を煩い、人工呼吸器と車椅子での生活を余儀なくされている「重度障害者」である一方で、障害者の自立支援を行っている。

1章「わたしは障害者なの?」
もっとも「障害者」と言う定義自体は、

「身体障害・知的障害・精神障害があるため、日常生活・社会生活に継続的に相当な制限を受ける者。障碍者。障害のある人。チャレンジド。」「広辞苑 第七版」より)

とある。社会的な行動、いわゆる仕事や生活などにもうまくできないといったハンディを持つようになる。しかし一概に障害者と言っても、できることはたくさんあり、著者自身も旅をしたり、仕事をしたりするなど「できること」を考え、行動していった。他にも本章では「障害者」に対しての「認識の違い」についても取り上げている。

2章「障害者ってかわいそうなの?」
障害者をはじめ、様々なハンディを持つ方々に対して「かわいそう」と思っている方も少なからずいる。かくいう私も度合いによってはそう思ってしまうこともある。しかしその「かわいそう」こそ失礼に値するようなことも往々にしてある。当事者は決してかわいそうに思って欲しいというわけではなく、必死に生きている。もっと言うと障害者と言われても、同じ「人間」であり、同じく社会的に生きることをやめていない。

3章「人間の価値ってなんだろう?」
ハンディを持っている方々は何かしら不便な部分はある。しかし自らを「不幸」だとは思っていない。もっとも人と違うのだから、目立ったもの勝ちというような思いを持つ方もいるという。障害者であったとしても「生きる」ことそのものは、誰にでもあり、生きる事への「価値」は変わらず、探し続けている。

どんなにハンディを抱えても生きることを捨てず、そして新しい事へ向かってひたむきに突き進む。障害者であろうとも、何もハンディを抱えていない人であったとしても。何かしらのハンディを抱えても、ひたむきに生きることができ、働く歓びを得て、そして明るい未来をつくる事ができる。そのことにより「障害者」と言う言葉は「死語」になっていくのではないだろうか。