未来をひらく道 ネパール・シンズリ道路40年の歴史をたどる

東アジアと東南アジアの間に挟まる国であり、なおかつヒマラヤ山脈にも面している国であるネパールは山道が多く、長らく道を拓くことができなくなっていた。しかしながらその道を切り拓くことのできた日本人たちがいた。その日本人たちの活躍とネパールに道ができるまでの過程を取り上げている。

第1章「山に道を通す」
アジアにおける国の狭間にあるだけあり、冷戦の戦いにも巻き込まれた。その時代にはまさに「道なき道」と呼ばれるような道がほとんどであり、移動するだけでも時間のかかることが多かったのだという。

第2章「描かれた青写真」
そこでJICAが現地に赴きネパールに道をつくることとなった。1979年のことである。スタートして調査を行い始めたのが1980年、長きにわたる調査を経て、ついに道を拓く青写真ができたかに思われた。しかしそこに思わぬ障害が立ちはだかった。1993年の豪雨である。その豪雨に伴い、また一から青写真を組み立て始め、やり直すほかなかった。

第3章「道を切り拓く」
ようやく青写真ができ、工事に取りかかり始めたのだが、ネパールならではの気候も障害としてあった。それは暑さとスコール、さらには現地の方々とのコミュニケーションがあった。それを次々と乗り越えていき、切り拓き続けていった。

第4章「激動の時代を乗り越えて」
工事が続き21世紀を迎えることとなったのだが、その中で第2・3章以上の出来事が起こった。2001年に「ネパール王族殺害事件」、さらに翌年2002年にはクーデターが起こるなどの激動の出来事があった。さらには2006年からは民主化運動が高まるなど政治的・国家的に変化のある出来事が多くなった。さらに道路建設の現場でも、豪雨が起こり、築き上げてきた道路が流出すると言ったこともあった。

第5章「ラストスパート」
工事が進んで行くにあたり、民主化、さらには経済的な煽りが建設現場にも襲った。現地労働者の賃上げや工事についての住民の要求も高まっていくこととなった。それを乗り越え、2015年に開通した。

ネパールの道するまでの道のりは長かった。JICAの活躍に関する本はいくつか読んだことはあるのだが、その中でももっとも道のりは長く、なおかつ障害や壁が多かったと言っても過言ではない。それはネパールならではの事情もあるのかも知れないのだが、それを乗り越えて道を切り拓くことができ、なおかつ今のネパールの大動脈として役立てられている。