時代劇の「嘘」と「演出」

この頃地上波では時代劇が少なくなってきているといった声がある。しかしながら時代劇は今もなお放送されており、CSでは「時代劇専門チャンネル」と呼ばれる時代劇を中心に扱っているチャンネルがあり、なおかつ他のCSチャンネルでも時代劇を取り扱うことが往々にしてあるため、全体的に少なくなってきているとは言えない。

私もいくつかであるものの時代劇を観たことがある時代の情緒はもちろんのこと、時代劇独特の殺陣(たて)のシーンも魅力的である。しかし時代劇はあくまで「創作」である一方で、時代的な検証を進める「時代考証」も行うことがあり、それが史実と創作を上手く調和する役割を担っていると言える。本書はその時代劇における演出について取り上げている。

第一章「時代考証が支えるNHK大河ドラマ」
今年の大河ドラマは「いだてん」であり、明治から昭和にかけての物語であるため大河ドラマとしては「異色」と言える(明治~昭和時代を題材とした大河ドラマであれば1984年~1986年の「近代大河3部作」がある)。もっとも大河ドラマの題材における時代は様々であり、多くは戦国・江戸時代であるのだが、中には平安や鎌倉時代のものもある。もっともその「時代」にもドラマにするためには考証が必要であるのだが、演出面から考証を裏切られることもしばしばある。その考証を行うのも専門家であるのだが、かなりつらい立場に置かれるという(一般・学者双方のバッシングの的となることがあるため)。

第二章「時代劇黄金期の考証家たち」
そもそも歴史作品を行うにも時代考証が必要であり、戦後間もない時から存在したという。もっとも歴史小説を描くにあたって時代考証を行う専門家を頼りにする作家もおり、司馬遼太郎も信頼した考証家を据えていたという。他にも時代小説に対して批判を行う考証家もおり、大佛次郎をはじめとした有名な時代作家をも震わせるほど歯に衣着せない考証家もいたという。

第三章「歴史小説家の功罪」
もっとも歴史小説はあくまで「フィクション」である。もちろん史実も描くことがあるのだが、小説としての面白さを伝えるためにことを大きくしたり、かつ演出するための虚実をつくる事もしばしばある。もっとも歴史学的議論の中に「司馬史観」が作られたことも功罪の一つとしてあげられる。

第四章「新しい時代考証を求めて」
時代劇はフィクションであるのだが、そのフィクションの中には歴史的な出来事の詳細に演出を行うための「ウソ」をまぶすことが求められる。もっとも史実を描いたとしても非難の的になることもある。一例で言うと2000年に放送された「葵 徳川三代」において徳川家康を演じる故・津川雅彦が爪をかみ、懐紙の上に吐き出すというシーンであるが、もっとも家康は爪を噛む癖(特に戦で負けるときに親指の爪を噛み、血が出たこともあったほど)があったにもかかわらず、視聴者のクレームによりカットされたという話もある。

第五章「時代劇復興の牽引者たち」
いつのころからか「時代劇が衰退している」や「時代劇冬の時代」とも呼ばれるようになった。しかしながら専門チャンネルなどでは残っているため、完全に無くなっているわけではない。また時代劇復活のために躍起になっている方々がいるという。

第六章「これもまた時代劇」
時代劇において役者の立ち回りが中心となっているのだが、他にも時代劇には様々な視点がある。日本美術の結晶の一つである「挿絵」、また大河ドラマを歴史的に検証をする放送もあれば、時代劇にタイムスリップしたドラマも存在する。

第七章「特撮時代劇の系譜」
時代劇にも新しい要素を取り込むことがある。例えば「スーパー戦隊シリーズ」といった特撮ものと交えた「特撮時代劇」なるものが出てきたと言う。時代劇をもっと親しみやすく、なおかつ本格的な時代劇への入り口になるような試行錯誤も繰り返されていると言える。

かつて歌舞伎役者で人間国宝の二代目中村吉右衛門が「鬼平犯科帳」完結に関しての会見で「時代劇はなくならない」と発言したことがある。今もなお時代劇はあり、なおかつ新作も放送されている。しかし時代劇復興のためには地上波の放送を増やすことが求められるのだが、多種多様となった視聴者に対してどうアピールするか、制作者の課題としてある。