ミャンマー権力闘争 アウンサンスーチー、新政権の攻防

今でこそ国家顧問・外相として政権を担っているのだが(※ミャンマーの憲法上大統領に就任することができないため)、そもそもアウンサンスーチーはどのようにして政権を担うようになったのか、その攻防を追ったのが本書である。

第一章「闘争の幕開け」
元々ミャンマーは軍事政権であり、アウンサンスーチーは度々自宅軟禁を受けることとなった。最初のきっかけとなったのが、1988年に起こった「8888民主化運動」であった。元々ミャンマーは「ビルマ」と呼ばれ、社会主義国家であった。しかしその社会主義・独裁主義に異を発し、民主化運動を行ったのだが、その実は些細な喧嘩の火が、政治的における大きな変化となった。

第二章「日本軍が育てた英雄」
元々アウンサンスーチーの父はアウンサンであり「ビルマ建国の父」と言われた。アウンサンの青年時代のビルマ(ミャンマー)はイギリスの植民地だった(正確に言うと「英領インド」に併合された)。英国への抵抗から学生運動・政治運動を経て、ビルマ独立に向けて尽力したのだが、その中で日本との関わりを持ち、日本軍の支援も受けたという。アウンサン自身も日本に赴くこともあったこともあったこと、さらには日本軍によってビルマ独立軍の訓練を受けたこともあったという。そのことから本章のタイトルになったのかもしれない。

第三章「英国とビルマの狭間で」
アウンサンスーチーが生まれたのはまだイギリスの植民地だったときのことであり、イギリスとミャンマーの運命の狭間にて生きるしかなかった。メディアではアウンサンスーチーの礼儀正しさを映し出しているのだが、母親の厳しい教育があってのことだとしている。

第四章「NLD結党秘話」
第一章で述べた「8888民主化運動」の後「ビルマ」は「ミャンマー」へと変わっていったのだが、軍事クーデターが同時に起こり、軍事政権となった。今度は社会主義から軍事政権への闘いのために国民民主連盟(NLD)を結党し民主化に向けての運動を起こすこととなった。

第五章「自宅軟禁」
軍事政権への抵抗と民主化運動を行ったアウンサンスーチーは軍部からの度重なる横やりもあり、頓挫することもあり、なおかつ自宅軟禁も何度もあったという。1989年7月に最初に軟禁されてから、複数回受けて、最後に解放されたのは2010年11月だったため、実質的に11年もの間軟禁を受けたと言う。

第六章「解放」
軟禁から解放されると民主化に向けて動き出し、政権の中枢を担うようになった。政治活動家から、ついに政治家へと歩み始め、そしてミャンマーに向けて尽力しているのだが、ロヒンギャ虐殺の件で批判を受けることも少なくない。

今でこそ政権の中枢を担うようになったのだが、それまでの道、もといミャンマー民主化への道は果てしなく長かった。父であるアウンサンも英国への抵抗とビルマ独立へ向けて尽力したことを考えると、向く方向は違えど、行動までの道のりは「父娘」共々であったのではと考えてしまう。